講 演 記 録 私と漫画   倉田新


倉田と申します。よろしくお願いいたします
今日は『私と漫画』と題しておよそ三つの柱でお話しをいたします。
ひとつは私が漫画を描くようになったきっかけとさまざまな出会い、もうひとつは生業漫画になって感じていることや大事にしていること、そしてアイデアをどのように生み出しているかなどです。

◎漫画・マンガ・まんが
 本題に入る前に「漫画」についてちょっとふれさせてもらいます。私は漢字で漫画と書いていますが、新聞や雑誌では漫画を表記するとき、漢字の漫画のほかカタカナで「マンガ」あるいはひらがなで「まんが」のこの三つがあり、どれもが通用しています。
 これは私の知るかぎり漫画だけの固有の現象で、小説、詩などではあり得ないことです。

もし小説をカタカナで「ショウセツ」ひらがなで「しょうせつ」や詩を「シ」「し」と書けばなにか特別な意味があるのではないかと思われてしまうでしょう。しかし漫画では三種が通用しています。知り合いなどの話しによりますとそれぞれにもっともらしい理由はあるということです。

 漢字の漫画は幕末の絵師・葛飾北斎の「北斎漫画」が日本で漫画という文字が使われた最初というのが定説になっています。しかし今使われている意味で漫画という言葉が定着したのは明治後半に福沢諭吉が時事新報で漫画という名前で漫画を掲載した以降のようです。カタカナのマンガが一般化したのは比較的新しく漫画が外国漫画の影響などを受けて旧式な漫画から表現・形式も多様化し、カタカナでマンガと書くにふさわしく変化しているという理由があるということです。また漫画は誰にでも分かりやすく親しみやすいという特徴があるのでひらがなで「まんが」と書くのが一番ふさわしいという意見もあるといいます。

私は北斎以来の漢字の漫画に親近感をもっています。漫画の『漫』は辞書によれば「とりとめのないこと」「しまりのないこと」となっていますが、そこに私はむしろ自由自在というイメージを感じ気に入っています。

カタカナの表現にはもうひとつ、たとえば「心」を「ココロ」と書いて「ココロの時代」とちょっと軽いのりで本を売り出すときなどの演出の手法に使用するともいいますのでカタカナで書くことには業界の思惑があったのかも知れません。  

「漫画・マンガ・まんが」の三種混用は漫画と時代の関係を解き明かすひとつのカギを孕んでいるようにも思います。

◎漫画を描くきっかけ
さて私が漫画を描いたきっかけですが、それは単純な動機です。
1960年代の始め、私の10代後半から20代の頃です。その当時はまだ漫画といえば少年漫画を別にすればいわゆる大人漫画はヒトコマが主流でした。新聞や雑誌で「新人漫画」や「読者の漫画」などとヒトコマ漫画の投稿欄がかなりありました。週刊誌も次々に発刊されるご時勢でそこでもヒトコマ漫画を募集していたのです。一見簡単そうに見える軽妙な絵、世相や生活を材料にした愉快なアイデアをみて、自分も描いてみたいと思ったのです。掲載されると賞金が出ました。安いところで5百円、だいたい千円から2千円でした。ラーメン一杯35円の時代ですから、結構ありがたい額だったのです。この賞金目当ても描く動機のひとつでした。しかし絵は小学校の図画工作で習った程度、アイデアの発想法などまるで知らないのですから漫画を描けるわけがなかったのです。そこで雑誌に載っている漫画を模写し絵とアイデアのコツを勉強しました。そうやってどうにか描いて投稿したのですがで、一年ほどはまったく入選無し。それでも投稿を続けました。最初の入選作は内外タイムズ紙上で皇太子(現平成天皇)と美智子さんの結婚パレードを扱ったものでした。

当時私が描いていた作品の傾向はたとえばその頃、郵便遅配が社会問題になっており、それを題材にした作品で子供が学校から試験の結果を持ち帰り父親に「とうちゃん、先生がぼくのこと、これだって」と点数ではなく〒の記しがついている答案用紙を見せているものなどです。「遅れているよ」ということを遅配にひっかけた漫画だとか、これも当時は血液銀行というものがありましたが、そこに蚊がサングラスをかけてピストル持って銀行強盗に入るとかナンセンンスな思いつきを即席で絵に描いたものです。

この手の漫画こそ、漫画の面白さそのものと考える漫画観は当時も今も漫画界にあります。ともかく私も働きながらそういう漫画を描いて投稿していたのです。これが私の漫画の出発点でした。

◎漫画観の変化
漫画観が変わったのはいくつかの出会いや体験があったからです。

ひとつは労働組合運動です。60年安保闘争や三池闘争など労働組合が平和や労働者の生活と権利を守る重要な役割を担っていることが私にも実感でき、違和感なく組合運動に参加するようになりました。職場の労働組合の上部団体は合化労連といって「合成化学」という題名だったと思いますが機関紙を発行しており、そこにももちろん漫画は載っていました。

その漫画は今まで私が描いていたものとは違って、主体的意思が鮮明で労働者や国民の思いや願いを漫画にした作品でした。

機関紙「合成化学」に漫画を中心的に描いていた漫画家の一人に八木義之介(1930〜1996)さんがいました。労働者の気分を巧みに表現し、元気な勢いのある絵が魅力的な漫画でした。八木さんはズックのカバンを肩からさげてスケッチ旅行をさかんに行っていることなど後になって知りましたが、そのスケッチがそのまま作品として新聞に掲載されることがありました。人々の生活の雰囲気・そこに吹いている風を感じさせるリアリテーで人気があったのです。

あるとき合化労連本部に電話をかけたところ偶然にもそのとき八木さんが原稿を届けに来ているというので話をすることができたのです。遊びに来なさいということになり、伺ったわけであります。私の職場には絵の好きな先輩がおり私が漫画を描くことを知ってその先輩は自分も描くと言って実際に描き始めたのです。吉永文治さんという私より6歳年長の方でした。吉永さんはその後、退職しアニメーション会社を経てイラストレーターで活躍しましたが、2006年の4月に68歳で病没されました。

その吉永さんと二人で八木さんの仕事場に行くと、表に面した仕事場の入り口に手書きのポスターが貼ってあったのです。ボタ山に少年が一人座って遠くをじっと見ている絵に手書き文字で「とうちゃんは帰ってこない」と書いてあるのです。出稼ぎに行ったままなのか、それとも炭鉱事故で亡くなったのか分かりませんが、その絵はかなり哀歓を漂わせ訴求力があるものでした。八木さんはりんご箱の上にサンマとお酒を載せてそれを飲みながら漫画論を語り、いろいろな生活漫画や闘う漫画を見せてくれました。

その後、柳瀬正夢(1900〜1945)や(まつやまふみお(1902〜1982)の作品を知るようになり力不足も省みず私も次第に自分の内面と言いますか、そういう部分と密着した作品を描いてみたいと思うようになっていました。

八木さんにはやがて民主青年同盟の機関紙「民青新聞」を紹介され、週1回「チャンネル青春」と題する絵と文の作品を連載することになりました。この作品は漫画というより労働者の私自身の周辺でのできごとを絵にし、それに短い文をつけたものです。会社から帰り、ごはんを食べてから描くわけですがイメージどおりの絵が描けずかなり苦労した思い出があります。ときどき今も私と同世代の方にお会いすると「チャンネル青春、見ていました」と言われるときがあります。なかには「倉田さんの作品ではあれが一番よかった」という人もいます。もう40年前の作品ですが、体当たりで描いた私の青春そのものの作品です。

八木さんが仲間の画家や写真家、詩人と「芸術集団ど」を結成するというので私も参加しました。8名ほどだったと思いますが皆さん20代、30代なので徹夜で「芸術とは何か」などと話し合う元気がありました。「労働者の立場に立った創作が必要」と主張する意見があれば「おれたち自身が表現労働者だから立場に立つなどおこがましい」などにぎやかな議論でした。ベトナム戦争の最中で「アメリカはベトナムから出て行け」の手製の旗ざしものを持って集会に参加しました。他国に攻め込み「自由のため」などいうアメリカはなんとおこがましいことかと思っていたので突き上げるこぶしにも力が入りました。



 漫画家・田村久子さんから日本漫画家会議の集まりに参加しないかと誘いがあったのもこの頃です。労働漫画で活躍している漫画家に会えるので仕事が終わると喜んで参加しました。小野沢亘、宮下森、馬場辰夫さん等の漫画家と会えたのもその会合です。田村さんに推薦されて日本漫画家会議に入会したのは25歳のときです。

小野沢亘(1909〜1995)さんとお会いできたのも漫画会議ですが、集まりの後、つれられて酒場にいくとコップ酒片手に体験談を身振りを交えて熱心に話してくれることがたびたびありました。戦前の弾圧のなかでも身を危険にさらしてまでプロレタリア芸術運動にひかれたのは「外に自由が無い時代にそこが一番、自由に芸術の話しができたからだ」ということは何度も聞きました。これはピカソがフランス共産党に入党したとき「泉をもとめるように共産党にいきついた」と述べたと伝わる心境に似ているのでしょうが、体験としてこういう話を聞くのは初めてだったので今でも記憶に残っています。

田村久子さんにはその後、漫画を本気で描くなら、生業でやる必要がある「生活はなんとかなるわ」と励まされ、それが結局、漫画家になる契機となりました。

振り返ってみると労働組合、芸術集団ど、日本漫画家会議とそれを形成していた人々との出会いが私の漫画を変える大きな力になったのです。

◎生業漫画家になる
昼間の時間を自由に使い漫画を描きたい。「道は切り開くもの」と少々、無鉄砲に自分に言い聞かせて職場に退職願いを出しました。私は30歳で妻と子供が一人いましたが、妻は「やりたいならやりなよ。人生一度」とかなりあっさりと背中を押してくれました。

1973年12月7日付けで退社し、その翌日の8日に日本漫画会議の定期総会が愛知県渥美半島の伊良湖岬で開かれたのです。

晴れて自由業、これからは漫画家だ、と気持ちは明るくはずんでおりました。太平洋を望む海辺で大アサリを焼き八木さんや高橋宏一(1922〜1998)さんなどの酒好きの先輩に混じり冷酒を飲んだときの感触は今でもきのうのことようにおぼえています。

 この伊良湖の総会で会計が決算報告をしたのですが、それは単純明快なもので会費収入の総額と支出の総額を書いたもので細目はほとんど無しの用紙が配られたのです。

 宮下森さんから「漫画通信社からの2万円の祝い金はどこにあるのかね」と質問が出たかと思うと、関西の機関紙で活躍していた平トツコさんが用紙を指先でつまんでヒラヒラと振りながら「こんな会計報告見たことあらへんわ」と冷ややかにあしらったのです。会計が立ち上がり「ボクは不正がきらいです。これは夕べ女房が一生懸命、計算し作ってくれたものです、不正があるなら弁償します」と大声で宣言するなどの場面がありました。真剣な話し合いですが、労働組合の大会とは一味ちがう牧歌的な感じで私はひそかに笑ってしまったのです。

 この総会で私は田村さんから会の事務局長のバトンを渡されました。

ところが漫画家になるのは簡単でも、なり続けることは大変なことだと気がつくのにそう時間がかかりませんでした。

漫画家になるのは役所に届けを出す必要もないし、試験も免許もいらないので簡単です。でも仕事があるのか、生活はどうなるのかといった問題が目の前にはあります。私は田村さんが中心になって創設した「カリカレ」という漫画家の事務所に田村さんの誘いで参加できました。そこは田村さんの実績と信頼で民主団体などからイラストの発注がありました。
田村さんは自分に2,3点の仕事があると「ああ忙しい、忙しい」とつぶやき「この後、仕事入ったらおたくたちでやってね」と本当に忙しそうなにしていました。2,3点なんてそう多忙というわけではありませんが、仲間に仕事を回す配慮だったのかもしれません。ずいぶん後になって田村さんにそのことを話すと「私は本当に忙しかったのよ」と言っておりました。

しかし、私の場合しっかりとした基礎を勉強したわけでもなく、いわば若い一時の感覚だけで生業になったので多様な漫画や力ある絵は描けないボロがすぐに出て冷や汗を流すはめになりました。

◎生業になってから「泥縄式」に勉強 (つづく)