平和 幸せ 親しみある筆づかい 宮下森卒寿漫画展を見る)

以前、宮下森さんに作品集を出すか個展を開かないのですかとたずねたことがある。
そのとき宮下さんは「ぼくは過去を振り返るのはきらいだ。やるなら新作でないと意味がない」と言われた。
 これは宮下さんの持論のようで、そのためだと思うが長い漫画活動を一望できる作品展はいままで無かった。90歳の漫画卒寿展も「新作を飾る」ことが念頭にあったらしい。しかしもう10年以上前から眼病で視力は衰え残念ながら「新作」は見送ったという。

100点は優に超す過去の作品から自選した45点が並ぶこの卒寿展は「愛と平和と幸せ」の題名どおり展示にも工夫がほどこされ宮下森さんの漫画の魅力のほぼ全容に触れることができる。
 作品には1から45まで通し番号があり、宮下さんのアイデアで紙芝居風のストーリーで構成・展示されている。「雪の日にロマンスの花が咲く話」から始まる16点。その後に癒着政治、環境破壊、反戦、核廃絶を願う作品等17点。中曽根元総理から小泉「構造改革」までの総理大臣像12点が並ぶ。いずれも1960年から2002年の42年間の作品から選ばれたものである。

宮下さんには木版による漫画とイラストボードを卵型に区切りアクリル絵の具を使用した色彩豊かな作品群がある。展示はこのふたつを中心にストーリーに添い展示されている。  作品番号11の「黒いダイヤ始末記」は三井三池の炭鉱闘争を題材にしたもので(木版・1960年)今回の作品のなかでは一番初期のものである。作品番号25の「反撃」(木版・1971年)はベトナム戦争時の作で反戦運動の一翼を担い当時広く注目された。

宮下さんの漫画には人々の生活を題材にしたものにはもちろん、その幸せを阻む政治と現実の惨状を取り上げた作品にも、ふわりと柔らかな眼差しと親しみを呼ぶ筆づかいがある。宮下漫画が成しえた風刺とユーモアの世界である。卒寿展ではそれを一望できる。
その世界は不思議と明るい。この明るさは「平和と幸せ」を求めいつも前を見続ける姿勢から生まれたものであろう。
宮下さんは今でもアイデアは泉のごとく湧き出るという。「でも、もう目が悪いから」と静かに笑っていた。(2006年10月25日付、しんぶん赤旗)


笑い療法士のこと

笑いが身体によいことは多少知っていた。古代ギリシャでは病人に先ず喜劇を見せて、よくならなかったら医師が診るという話や、笑いが免疫力を高めることなどをどこかで読んだ記憶があった。しかし日本に「笑い療法士」の認定制度があることは新聞報道で初めて知った。関心があったので事務局の日本医科大学の癒しの環境研究会に資料を請求した。それを読んで分かったことは療法士の目的は笑い通じて患者の治癒力を高めるサポートをすること、一緒にいて楽しい感じを与えること、その際特別なグッズは用いないなどである。
笑い療法士は国家資格の認定ではなく(国家資格を目指しているが)癒しの研究会が任意で設けたもので、2005年に第一期生45名が誕生し、第二期生を募っていること、などであった。
二期生は書類選考、講習会を経て認定されることを知り、私も応募した。

結果は書類選考で落選。この連絡は4月中旬にあった。

7月9日(日曜日)に第二回笑い療法士認定授与式があり、副題が「笑いで自己治癒力を高める!学びの会」なので後学のために参加した。二期生には900名の応募があり、100名弱が最終的に認定されたとの報告があった。認定者の多くは医療関係者のようだが、性格上、これは当然だろう。
私はこの学びの会に参加して自分が笑い療法士には不向きなことがあらためてわかった。
笑い療法士はそこにいるだけで病人をリラックスさせ安心させる深い人間性が必要なようである
漫画家の私はとてもその領域には到達できない。アイデアを考えるときは腕を組み暗い顔をしている。どちらかといえば不機嫌だ。存在自体は人を笑わすどころではない。
でもこの会の合言葉は好きだ。それは「1日5回笑って、1日5回感動する」である。


ゴッホのこと

 ゴッホ(1853〜1890)は日本で人気のある画家の一人だ。彼は日本を「理想郷」とまで美化し浮世絵の模写にとどまらずそれを自分の作中に取り入れたことは知られている。バブル経済の時期には莫大なお金を投じてゴッホの「ひまわり」を購入した会社社長などもおりゴッホの名前は経済にかかわってマスコミを賑わせた。
 とにかくかなりの人気である。平日の昼下がりだというのにキップ売り場には3列の長い列ができている。男性より30代から60代の女性が目立つ。絵の前には2重、3重の人垣である。

 私にはゴッホ展への特別な思いがあった。
 それには次のようないきさつがある。

 2004年の日本アンデパンダン展(日本美術会主催)の後しばらくして「展評」が送られてきた。
 そのなかで美術評論家の北野輝氏がひとつの作品(ニューヨークのテロとその後の米英のイラク攻撃を見て、悲しく辛い思いに駆られて描いたという、荒川明子氏の「祈り」と題する抽象画)をとりあげてこの作品に批判的感想が出されたことを紹介し、その理由として「作品自体の与える印象が作者の意図とかけはなれているためであろう」と書いていた。荒川氏の作品は白い画面に無数の丸い円が描かれたものである。私はこの北野氏の批評に異論があるというわけではない。これを読んで、作者の意図と見る人の印象の違いということでゴッホにまつわる私自身の経験を思い出したのである。

 ゴッホには「夜のカフェ」と題する作品がある。画面中央に玉突き台があり、壁面を赤色でぬったやや閑散とした室内と何人かの客の姿を描いた風景である。私はこの作品を画集で初めて見たときこれはゴッホ自身の「孤独」を描いたものであろうと思った。ところが後になってゴッホが弟テオに宛てた手紙で「夜のカフェ」の作画意図を「人間が堕落し、狂気に走り、犯罪を犯すようになりうる場所だということを表現してみたかった」と書いているのを知った。さらにゴッホは「しかし、これらは日本風の快活さやほら吹き男の純朴さといった表面にかくされている」と言っている。

 優れた観察力や洞察力を持つ批評家でも「夜のカフェ」の絵から『表面の純朴さに隠された』『堕落や狂気、犯罪』の意図を理解できる人は極少であろう。絵画は説明図ではなく形態、色彩、構図などでイメージを構築する世界である。具象画であっても作者の意図を理解するのはこの例のように難解である場合も考慮すれば意図という主観は当然ながら独自なものであり、客観と一致するとはかぎらないことがわかる。作者の主観と見る人の客観が一致しなくとも作品はそれ自体の力で一人歩きを始める場合もある。魅力ある作品とはそういうものであろうことを私はあらためて知った。
 先のアンデパンダン展の作品で言えば「印象と意図がかけ離れている」問題とともに、あるいはそれ以上に鑑賞者の『印象』そのものがもっと重視され、作品自体の魅力如何が問題にされて良いのだと思う。

 以上のようないきさつもあり、ゴッホの絵を見る機会には自分の目と感覚で確認してみたいと思っていたわけである。
 今回のゴッホ展には「夜のカフェ」は出品されていなかったが、制作年月日(1888年9月)が同じ「夜のカフェ・テラス」が出ていた。一方が室内であるのに対し今回の出品作は室外風景という違いのほかゴッホが重視する色彩がまるで異なる。夜空の青、テラスの黄色。「カフェ」が室内のよどみ「犯罪」ならこちら「テラス」は「清涼な外気」の存在を感じる。夜景に明るさがある。
 ともあれ、どの作品も人垣の肩越しから見たので展覧会が終わる5月の22日までにもう一度平日の開場直後に訪れてゆっくりと見たいと思っている。


漫画家 小野沢亘さんのこと

 私が漫画の道に入りたての頃は先輩の体験や創作論を聞く機会がかなりあった。
特に小野沢亘さんには親しくしてもらった。代々木駅近くの泡盛屋に誘ってくれ肉豆腐をつつきながら体験談を話してくれることがたびたびあった。戦前の運動のことになると身振りを加え時には中腰になり熱を入れて話してくれた。  
 小野沢さんは1927〜33年ごろのプロレタリア美術運動(プロ美)の当事者の一人だったので体験談には臨場感があった。
 
 小野沢さんは足立区の自宅から豊島区のプロ美の研究所まで一文無しで半日近くかけて歩いたそうである。「君、行けば飯が食えるし、議論する仲間がいるからね」と言っていた。そしてそのままそこに泊まって絵を描き本も読み議論を繰り返すことが多かった。結局、責任者の矢部友衛さんにすすめられて研究所の住み込み所員になった。しかし当時のことだからその運動は警察に監視され弾圧も受けた。小野沢さんはある日頼まれて撒いたビラの一件で逮捕された。警察は『お前も多喜二みたいになりたいのか』と脅し竹刀でたたいたという。
 20歳は過ぎてはいたが、童顔だったので「痛い、痛い」と叫ぶと竹刀を持った刑事が「なんだ、子供か」と顔をしかめたという。小野沢さんは「痛い」といいながら当時を思い出し、そのときの表情をつくり「こうやって、痛いと言ったんだ」と話してくれた。
 それでも、プロ美の運動は小野沢さんをひきつけた。「なぜですか」と聞くと「そりゃ、君、そこが一番自由だったからだよ。物が自由に言えない時代に研究所には自由があったんだ」と小野沢さんは『自由』を強調した。
 
 「日本プロレタリア美術史」(岡本唐貴、松山文雄・編著。造形社)を見るとたしかに「研究所全体は自由奔放で、そこに若い連中がのびてゆくには格好な場所が提供されていた」と記載されている。
 創作・創造に自由は必要不可欠である。あの暗黒の時代にプロ美研究所が若い美術家を惹きつけていた魅力もそこにあった。
 小野沢さんはまた私に自由に物を描くためには「自由に描けるだけの技」を習得しなければ自由になれない、とも言った。「理論・感情・表現」の統一的発展の必要性である。
これは小野沢さんが生涯求めた生き方でもあった。晩年の一時期、机をならべて仕事をさせてもらったのでそれを体感として学ぶことができた。


お酒とたばこ

 自宅では日本酒を好んで飲む習慣はなく、飲むのは発泡酒か焼酎が多かった。
ところが年末に100円ショップで目に付いた150cc用の徳利を買い、日本酒をチンして熱燗をお猪口で飲んでみると、おいしいので盃はすすむ。3本ほどはあっというまに空けてしまったのでとりあえず5本でやめた。
 飲むといってもあらためて何かするというわけではなく、仕事机の上をかたづけてそこが飲食兼用となる。つまみは皮付きピーナツ2,30粒。読みかけの本など片手に盃を空ける。このほうが落ち着いて飲める。

 街の酒場でも私が入るところはできるだけ込んでいる大衆酒場。横一列に並んだ椅子のひとつにすわりガヤガヤした雰囲気のなかで壁に向かって一人飲むというのが好きなのだが、以前この話を知り合いにすると「イヤダネ。暗い、暗い」と言われた。私にはこれがあれこれ思いをめぐらせる一番のリラックスタイムなのだが、人の見方はまた違うようだ。しかし『沈黙の雄弁』ということもある。たしか壺井繁治の詩にもそういうのがあった。

 実は私はお酒を30歳までまったく飲めなかった。漫画家になり付き合いで飲む事が多くそれで飲めるようになったというより、田宮虎彦(1911〜1988)の小説「足摺岬」読みそのなかで苦悩する青年に行商人が「おぬし、酒を飲めれば、苦しみもわすれるのに」という趣旨の話をするくだりがあった。これを読んだとき「へーそうなのか」と飲めない私は妙に感心した。 では、飲めるようになろうと思って努力して私はお酒をいただくようになったのだが、飲んで、苦しみを忘れるなどという経験はなかった。お酒はお酒、苦悩は苦悩と私の場合は別物である。
 その後「足摺岬」書いた田宮虎彦が自宅マンションから飛び降り自殺したことを、私は新聞で知った。
 ふと、田宮虎彦はお酒を飲めたのだろうか、と思った。

 たばこは興味で未成年のときから吸い始めた。銘柄は「ピース」の両切りだった。
漫画家になってからは一日30本、その後一番吸った33歳からは60本に増えた。
 こうなると、半ば惰性的に手がたばこに向かっている。口の中はヤニで気持ちが悪い。36歳のある日、もうたばこは止めようと思った。ご他聞にもれず、禁煙は一回では成功しなかったが、失敗を幾度か繰り返したのちたばことは縁を切った。

 お酒ともだいぶ付き合いが長くなった。
そろそろ縁切りの時期かなと盃を口に運びながら考えている。禁煙の経験から中途半端な節煙・節酒は案外難しく、いっその事きっぱりと全面的排除が私の場合、成功の秘訣だと思っている。(2005年1月3日)


日本の安全

 10月20日の参議院予算委員会の総括質問をテレビで見て改めて感じたことがあった。小泉総理は外交防衛問題の答弁のなかで「信頼できるアメリカと同盟関係を強めることが日本の安全と安定に資する」と強調していた。

 アメリカが発表した資料によると同盟国でアメリカ軍の駐留費に一番お金を使っているのは日本でこの額は他国と比べてダントツである。日本の政府与党は「日米同盟」(日米軍事同盟)は国益とばかり持ち上げて、経費もどんどんつぎこんでくれる。米軍をアメリカ本国におくより日本駐留のほうが『安上がり』といった米軍高官がいたという。こういう実態があるから日本に米軍の再編強化の一環で米陸軍の第一司令部まで日本に置きたい、という発想もでてくる。日本の防衛庁官も歓迎のようだ。

 だがちょっと待ってほしい、「信頼関係」といいながらそれは日本がますます米軍の指揮下・アメリカの『属国』になるってことだ。

 昔の任侠物でいえば強い親分さんのおかげで村も安泰と親分さんの村支配に村民をさとす顔役に小泉さんの言い分は似ている。駐留経費は「みかじめ料」というわけである。しかし、この問題で大切なことのひとつは(他にも大事なことはあるが)親分さんが利益にならないとおもったら友が敵に変じる可能性だ。事実、アメリカは同盟関係であっても自国の利益という判断基準から外れたら敵とさえみなす。

私は日本にとっておそらく一番の脅威となるのはほかならぬアメリカだと思っている。

先年の有事立法論議の折、小泉さんは「備えあれば憂いなし」の喩えを用いて「万一に備える」ために有事立法は必要と説明した。ならば、アメリカと『万一によからぬ関係』になった「有事」への備えも必要なはずである。主権国家としてその時、どうするのか。だが政府の姿勢には日本の主体性と戦略がまるでない。

「万が一」などといいながら結局、米軍が有事と判断した戦争に従うだけのことである。私はテレビに映る小泉さんの得意気な表情をみて、日本をアメリカの「従属国」に組み込むことにためらいのない姿勢に改めて驚いた。こうなると『一事が万事』で、BSE問題でアメリカに押し切られることは目に見えている。「全頭検査なし」で食の安全も危険にさらされることになろう。これも具体的なひとつの脅威である。日米関係はこれでいいのだろうか。


反戦平和のこと

 このホームページのトップで「反戦平和と民主主義の願いを漫画で表現」したいと書いたところ知り合いから「個性のない概念的な考え」と批判を受けました。漫画家ならもう少し自分の言葉と発想に寄り添った表現ができないものか、という趣旨です。

 そう言われて考えてみるとこの表現はたしかに既成の表現に寄りかかりすぎてその点では個性がないばかりか、「正論」を振りかざしている感じがします。もっと自分の声で表現できればいいのですが。これは結局、漫画のアイデアにも関係がある問題なので少し時間をかけて考えてみます。

 このこととは直接関係はありませんが、テレビ出演のゲストが「反戦平和を唱えているだけではテロに勝てない、平和は守れない」と自衛隊派兵を激励していました。この人は憲法を無視し自衛隊を派兵し軍事で対応すれば「平和」は守れるかのように考えているようです。そのことが新しいテロを誘発する実態など少しも見えてはいないのか、見てはいません。

 こんな乱暴な考えで「反戦平和」を敵視し戦争を合理化する意見が大手を振っているのが現状だからこそ「反戦平和」の声をあげてうねりのようにすることが大切だと思います。そのとき声は状況を動かす物質的な力になる、と思っています。


アテネ五輪断章

 獲得したメダルも日本選手団では史上最高でしたが、メダルに届かなかった選手の活躍もテレビで眠い目をこすりながら観戦し、競技の見事さ、美しさを堪能しました。

 朝日新聞がこの活躍の要因を国民がどうみているか世論調査をし、その結果は「選手本人の力42%」「指導方法の向上37%」「国や企業の支援15%」であったと報じています。スポーツや文化の向上には本人の努力・力を前提としながら、その力を支え、引き出す条件の充実が欠かせないことなので、今後は「支え、引き出す」条件整備がさらに求められると思います。

 この点では先日のNHKテレビの解説者が日本選手の活躍の背景とし東京北区に開設され練習もできる「スポーツ科学センター」の存在や国による「資金の重点援助」をあげていたました。これらをめぐっては単純に評価ばかりできない問題もあるのでしょうが、「支え、引き出す」ひとつの条件づくりとして記憶に残りました。

 関連事項として今、東京の六本木に建設中の新国立美術館の問題があります。計画ではこの美術館は作品の収集はせず、会場貸し出し専門。まだその使用料は明らかになってはいないようですが、高すぎると使用できない美術団体もあるので、ぜひ美術家の力を「支え、引き出す」文化的な「国立美術館」になってほしいと思います。




続「ハングリー精神」(「才能」と「努力」のこと)

 漫画や文化の向上のためには政治による条件整備が必要不可欠との文章を書いた後、何人かの関係者と話をする機会がありました。大体は私と同じ意見でしたが、中に「ピンとこない」という人がいました。その話を要約するとこうなります。

 「この種の仕事は結局、個人の才能と努力でその成否が決まるのだから、条件整備といわれてももうひとつピンとこない」というものです。

 もちろん私も「才能と努力」のことはよく理解しているつもりでいます。しかし「才能」が「花の種」だとすると「条件整備」は「肥沃な大地」を造るという関係にあり、「才能」も実を結ぶ「土壌」がなければ育ちません。この原則から見れば政治が果たす役割を「肥沃な大地」の整備だと言っても決して過分な言い方ではないでしょう。つまり、『努力』を励ます大地の必要性です。

 政治は個人的にみえる問題の社会的共通部分をどのように支援し解決するのか、ここにその要があり、これは文化、教育、経済はもちろん、社会保障がその典型です。

 「ハングリー精神」などを強いる政治は荒れ果てた土地を造ることになり、そこでは花も咲かないでしょう。

 豊かな大地の形成こそ今、一番大切な課題だと思います。


「ハングリー精神」賛美は無用

 エッセイに『仕事場のこと』を書いたところ「ハングリーでないと漫画は描けないのですね」というメールが届き驚いてしまった。あの文章の趣旨は喧騒を含め大都会の文化環境のほうが私自身には漫画を描くうえで適しているということを言いたかったのであって、表現不足はあるとしても決して「ハングリー賞賛」をしているわけではありません。

 むしろわたしは『ハングリー』は漫画に限らずあらゆる創造・創作の仕事にはマイナスで、大切な事はハングリーとは逆に『安心して創作できる条件の確立』だと思っています。

 このことでは今、文化関係者が諸条件を改善するためたいへんな努力をしています。その条件整備の根幹となる文化予算の増額・充実は絶対に必要で、わたしもそれをつよく要求している一人です。

 以前から『ハングリー』賛美は気になっていました。中曽根康弘元総理は在職中「芸術家はハングリー精神で刻苦勉励すべし」という趣旨の発言をし、ひんしゅくをかいましたが、わたしの知り合いのなかにも『ハングリー精神の必要性』を説く人がいます。そこであらためて「ハングリーはよくない」という立場から少しわたしの考えを書きます

  ハングリーとは『空腹、飢え』のことで「ハングリー精神」といえばそれに加えて「心の飢え・欠乏感」をも含めて使用されています。しかし本当にそのような状態でなければ漫画(を含む創作や創造)はできないものなのかといえば実際はその逆で、「ハングリー」では創造・創作の仕事は続けられないというのが現実です。

  論より証拠で、わたしの知っている漫画家を見ても物と心に充足して漫画が描けなくなったという人にはおめにかかったことがありません。むしろ描かなくなった人々の多数は「漫画では食えない」から『収入になる他の道』へ、などとハングリーから抜け出すために『安心と安定』を求めた結果、漫画から離れたというのが実態です。またひとこま漫画の場合、発表の場の狭さが、若い人々の参加の隘路になっていることなども問題の質は同じだといえます。創作と生活の状況は複雑で、さまざまな問題を含んでいますが、「赤貧洗うが如し」の生活では創作を持続することは困難で、社会生活を継続できる基礎的条件はどのような仕事でも必要不可欠であることはあきらかです。

 ある種の精神の欠乏感、渇きのようなものが創作の力になることはあり得ることです。

 それを広い意味で『ハングリー精神』の一部と考える人もいるでしょう。しかし今ここで問題にしている「ハングリー精神」はもっと原始的な『飢え』の状態に力点をおいたもので、裕福な経済条件のなかでも生じる精神の欠乏感は当面の論点とは内容が異なります。

10年ほど前に『清貧の思想』(中野孝次著)がベストセラーになりました。この本でとりあげられている日本の歴史上の芸術家は「思想として意志的に簡素な生活を選んだ」人々でこの場合も『ハングリー精神』とは「似て非なる」ものといえます。

 「ハングリー精神」賛美の背景には国民に「自助・自立」を強要し、福祉・文化の予算を削減する国の冷たい、野蛮な政策を押し付ける意図があったことはあきらかです。

この流れは現在の小泉『構造改革』が継承し、増幅しています。

 同時に日常生活のなかで漠然とした思惑で『ハングリー精神』賛美がされることがあります。しかし実態からも明らかなようにハングリー精神などというものは創作には無益であるばかりか時には有害でさえあります。漫画でよくいわれる批判精神も「ハングリー」だから物がよく見える、などということは無く、批判精神は世界と日本の現実を見る眼が土台になるもので、「ハングリー精神」などとは関係はありません。

 わたしは「ハングリー」を一種の原動力とする見解には反対であるばかりか、文化の自由な発展のためには政治が文化育成の条件整備に力を入れ、豊かな土壌を作る事が必要だと思っています(2004年6月11日)


仕事場のこと

私の仕事場は「仕事場メモ」(5月31日)の写真のように小さな事務机がひとつ。ありふれた賃貸マンションの一室。仕事場といってもここはふつうのダイニングキッチンなので振り向けばガス台や炊事場があり、鍋や食器がならんでいる。どうみても工房とかアトリエとか呼べる場所ではない。

 知り合いの漫画家が数年前に伊豆高原に新居を構え、何度かおじゃました折「こっちにきなさいよ、海も近いし、山もある、いいところですよ」と誘われた。実際いいところであることは本当で、テレビや本でこの地での有数の画家たちの活躍も知っている。

 私には転居する財力がないから引っ越すのはもともと無理なのだが、かねてから私は私のように政治や社会の動きを題材に仕事をする漫画家には大都会の塵芥や喧騒にまみれているほうが仕事はしやすいと思っている。別の知り合いにわたしのこの考えを話すと彼は異論をとなえ「今はインターネットや、FAXがあるだろう、情報収集と仕事場は別」というのである。たしかにむかしと状況は違う。情報だけならどこでも接することは可能だ。しかし生活と創作の背景全体の雰囲気は「魚にとっての生息水域」のようなもので、自然やその空気でイメージをふくらます画家には適切な環境でも、「風刺漫画」の発想には不向きな場所はある。少なくとも私には無理だろう。

 仕事場のすぐそばはJR新宿駅。都庁のビルが見える。渋谷から池袋方面にぬける「明治通り」は右翼の街宣車が大音響をたてて通る。近くに日本共産党の本部ビルがある。

 この環境が仕事場の最適の条件とは思わないが、私には合っている。


 ドーミエの重い荷馬車

 オノレ・ドーミエをとりあげたテレビ番組を見ていたら、ドーミエが弟子入り希望の青年に「誰が好んで重い荷馬車をひく」と言ったとことが放送された。私はこの逸話をはじめて知ったが「重い荷馬車」という言葉をドーミエがどのような思いで使ったのだろかといろいろ考えた。ドーミエは生涯、風刺漫画を含む石版漫画をおよそ四千点描いたと伝えられるがその仕事は必ずしも楽しいことではなく苦労も多かったようだ。晩年は貧困と失明にも襲われる生活を思えば「重い荷馬車」のイメージも理解できる。しかしこの言葉はそれだけの単純な意味だけでもなさそうである。ドーミエは1830年にドラクラワの描いたあの有名な「民衆をみちびく自由の女神」の闘いに民衆側の一人として戦列に加わったことで知られ、その後は風刺画で監獄に送られたように言わば革命の実践者でもあった。これらの経験を肌で知っているドーミエは仕事への甘さや幻想を排する意味で「重い荷馬車をひく」という言葉に託し「はたで見るより、厳しいぞ」と青年にそう言いたかったのではないだろうか。

 ドーミエは1879年、71歳で死ぬが、そのときはもう両目が見えなかった。瞼の筋肉がたれさがり眼をふさぐ病気だったという。

 石子順氏の「ドーミエの風刺世界」(新日本出版社)によると元気だった頃のドーミエは仕事をするとき日本の流行歌のような歌を口ずさみ腰をかがめて、ちびた鉛筆を器用に操りながら描いていたという。ドーミエの闘志だけではない一面を垣間見るようだ。




  思い出・私の原点

●少年の頃、私は「遅れてきた」軍国少年だった。小学生になったのは戦争が終わった昭和24年だが、子供に読める戦記物を探しては読んだ。近所のお兄さんの家に軍歌のレコードがあり私は「加藤隼戦闘隊」のメロデーに聞き入った。中学生になってから試験の答案用紙の裏に「連合艦隊司令長官山本五十六大将ばんざい」「われ敵艦の上空にあり」と書いたところ先生に呼び出され黒表紙の出席簿でほほを思い切りたたかれた。私は口の中から血を流した。先生は怒る理由を一言も言わなかった。今でも問答無用のあの制裁は不当だと思っている。

●少年期にはもうひとつ別の思い出がある。私の家から10分ほど歩くと「労働者クラブ」という商店や病院などをまとめて建てた一画があった。商店は安くて便利だと評判で、私も何度か買い物に行かされた。「ください」と声をかけると薄暗いみせの奥からおばさんがコソッとでてきた。どことなく静かな雰囲気だった。ある日、制帽をあご紐で結んだ警官隊が家の前をザクザクと隊列を組んでクラブへと進んでいった。親たちはマッカサーの共産党追放命令で勤め先から追い出された労働者がクラブの講堂で集会を開くのだと話していた。私は家を抜け出しクラブへ駆けていった。講堂の入り口を取り囲んだ警官隊が中の人たちともみあっているのが見えた。街の人々も大勢集まり口々に何か話し合っていた。私はあのおばさんもきっと集会のなかにいるのだろうと思った。なぜかおばさんと手をつないでいるような気持ちになった。

●軍国賛美も集会応援も子供の幼いあこがれや正義感のようなものだったが、こうした体験が政治を考える基盤や出発点となっていることは間違いない。


 新しい風・私と漫画

●青年の頃に読んだ旧ロシアの詩人エフトシェンコの「早すぎる自叙伝」に「詩人にとって自叙伝とはその詩作であり、後は注釈にすぎない」とあるのを読んでこんなふうに思い切りよく宣言できる人もいるのかと驚いた。

 あれからもう40年近く過ぎ私も還暦を迎え「注釈にすぎない」部分だけは確実に増えたが、窓を開けてまた新しい風を呼び込もうと思います。

●漫画とは何か、漫画の役割は何か、などということを私もしきりに議論していたことがあった。気がついてみるとその種の議論をしなくなって久しい。あらためて周辺をみても最近その種の議論をする人はめっきり少なくなった。亡くなった小野沢亘先生など80歳でもコップ酒片手に「君、漫画は」と口角泡を飛ばして論じていた。あの頃はまだひとこま漫画全体も今より活気があったことを思えば、もう議論する元気もでないほどひとこま漫画は疲弊したのかと寂しくなる

●私は政治への願いを漫画に託そうとしている。平和や命、生活や人権を守ることは政治が国民に果たす務めだから、そうでない政治には意見をのべることは必要だと思っている。日本国憲法の前文には「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とあり、日本国民は「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」とある。漫画でこの理想を追求する、などとおおげさなことはとても言えないが、小さな力でもその努力をすることは大切だと思う。