宮下森さんへ お礼とお別れの言葉

宮下森さん 私たちはつい先日90歳の記念の展覧会でお会いしたばかりでした。
そのとき「100歳記念展」もやりましょうとお話し、その三日後に突然のお別れをむかえるなどとはとても信じられません。
 しかし、宮下さんも常々考えておられたように、人間も自然の一部であり、自然は突然のふいうちをうけることわたしたちは理解しております。今は悲しく、残念でなりませんが、宮下さんが切り拓いてきた道をわたしたちもしっかりと歩み、御意志に答えることが大切であると思っております。
 宮下さんはいつも「ボクは過去をふりかえるのは嫌いだ。前を見て創作しなければ意味がない」と言っておられました。その言葉どおり宮下さんは生き方も創作も「平和と幸せ」を願い前を向いて歩いてこられました。

宮下さん私たちも前を向いて歩いていきます。
ながいあいだ本当にありがとうございました。
そしておつかれさまでした。
 さようなら宮下さん。
どうかやすらかにおねむりください。
 2006年11月6日 日本漫画家会議、倉田新

(告別のお別れの会で読み上げた後、棺に納めました)


メダカがクジラにあこがれた

 柳瀬正夢漫画のこと

 柳瀬正夢の漫画とはじめて出会ったのは1965年ごろだった。ぼくは製薬会社に勤め、夜は学校に通っていた。漫画も描いてはいたが、ナンセンス風な傾向からしだいに生活とのかかわりを素材にした作品を描くように変わり始めていた。20代の前半のころで労働組合の運動に加わったことが大きく影響していた。
 
 柳瀬正夢の作品で印象に残っているのは工場からげんこつが突き出し抑圧者たちを弾き飛ばしているものだ。ぼく自身、労働者に目覚めはじめていたときでもあったので、その作品の力強さにジーと見とれた。

 それまでぼくのあたまの中にある漫画観は生き方や考えとは関係なく「軽妙でおもしろい」アイデアを考え出して作品にする、といった程度のものであった。だが柳瀬漫画にはそれとはちがい、行くてを阻むものへの批判に燃える剛毅と熱気があった。こういう漫画が描ける原動力はなんだろうかと思った。その後、柳瀬研究誌などを手にして柳瀬漫画は「進歩的芸術家の必ず持たなければならない二つの資質」を正確にそなえていたと評した意見があることを知った。それは「(1)画家としての、もっともたしかな腕(描写力)(2)革命家としての、もっとも確かな態度(思想)」(タカクラテル・没後30年展研究誌)というものである。

 ぼくは「確かな腕」も「確かな態度」もなかったにもかかわらず、自分もこの二つに接近してみたいと思っていた。メダカがクジラにあこがれるような無謀な願望だったと思うが、しかしそう思わなかったら今ごろ漫画を描いていなかったはずだ。後日、柳瀬正夢と行動をともにした小野沢亘さんから聞いた話によると「柳瀬は太っていて明るく温かく、何気ない顔をしながらみんなを笑わせた」という。
 太っていることだけはぼくは柳瀬正夢に似ている。

 柳瀬正夢は終戦の年1945年5月25日新宿駅で焼夷弾の破片を受けて死亡。45歳だった。

({前衛}誌に発表したものを元に修正縮小)



私と漫画 

 漫画の仕事をしているので、ときどき「なぜ漫画を描き始めたのか」と聞かれて困ってしまう。そう言われてあらためてかんがえてみても、どうしたことか私には描き始めた明確な動機が思い浮かばないのである。
 絵を描くことが好きなこどもではなかった。家計の貧しさでクレヨンなど満足に買ってもらえなかったから、図画工作の時間はみじめさが先に立ち、好きになれなかった。同じような境遇の子とわざと悪ふざけをして廊下に立たされた。その方がみじめさが軽減される思いだったからだ。
 漫画を読むのも、友達から借りる月刊雑誌の掲載ものだけである。一番好きだったのは、杉浦茂の時代物だった。「コロッケ五円の助」などという名前のさむらいが出てきて、「オレ、コロッケ一個でごはん三ばい食べられるぞ」といばる場面などがふんだんにあった。
 しかし、どう考えてもその当時の体験が漫画を描く契機につながったようには思えない。
 もっと積極的な意味で漫画を見たのは、朝日新聞に掲載された六浦光雄のルポ作品である。それは銅版画のようなペンタッチで生活風景を描いたものだった。下町の裏通りやガード下の後姿の人々。夜なきそば屋。都電のレールぞいの赤ちょうちん。薄灯りのなかで霧のようにゆれている夜景。私は畳に新聞をひろげてその絵をじっと見ていた。特別なアイデアで味付けされない素材がむき出しの絵であったが、溢れるペーソスに子どもながら胸をふるわせた。しかし自分でそのような絵を描いてみたいと思った記憶は不思議と残っていない。私の漫画を描く契機は、あらためて文章に書くほど意味深いものではなかったようである。
 漫画といっても、その当時は今とちがい、劇画やストーリー漫画より一コマで見せる作品が主流だった。新聞や週刊誌でも、一コマの新人の漫画をさかんに募集していた。私もその賞金につられて見よう見まねでペンをとり投稿をした。それが一番はっきりしている動機のようなものである。 
 そんなわけだから、内容も社会の出来事をできるだけおもしろおかしく描くことに気を使った。批判精神というより野次馬精神に近いものである。でも一年ぐらいはまったく入選することはなかった。それでも私は、月に二、三か所せっせと描いては送り続けた。
 先年引退した広島カープの衣笠選手は、連続2000試合出場を果たしたが、新聞で読んだ彼の言葉に、「明日も出場すれば今日よりもっとましなプレーができるかもしれないと試合に出場し続けた」というものがあった。
当時の私も、これに似た気持ちだった。「次は入選するかもしれない」と思い続けたのである。この思いは今でも同じである。自分の作品をまえに、「次はもう少しましなものを描こう」とひそかに言いきかせているからである。
 初めて入選した作品は、皇太子(現平成天皇)と美智子さんの結婚式を題材にしたものだった。賞金は500円少年労働者の日給が200円。ラーメンが30円の時代だった。その次の入選作は、岸首相をもじったもので、まだ10代の少年だった私に、選者は「絵は下手だが、ナンセンスに走らぬところがよい」と書いてくれた。
 私の漫画観が決定的に変わったのは、20歳前後に「赤旗」を見てからである。
 私は生れてはじめて、まつやまふみおさんの政治漫画を見た。力強く鋭い風刺にどこかユーモアのある絵。私が物真似で描いていた軽い漫画とは全然ちがう格調と明確な意志のある絵。私もできることならそういう漫画を描いてみたいと思った。
 ずっと後になって、私は、まつやまさんの勉強方法を知って驚いた。戦後再刊された赤旗に政治漫画を描くことになったまつやまさんは、朝めし前に石膏に向い、4年間基礎的なデッサンをやり直したそうである。そして資本論を学習した。毅然として力強い漫画はそうやって生れたのだった。
 私が漫画を描き始めた頃は、「漫画にデッサンは不要」という意見が根強かった。漫画の祖型は落書で、とらわれない自由さこそ漫画の真髄である。デッサンはかえって漫画を型にはめるというのがその理由である。私はこの考えを頼りにしていた。絵の基礎勉強抜きで漫画が描けると勝手に解釈していたからである。
 あとで、まつやまさんにその話をすると、「若い人はそれでも描けるからうらやましい。ぼくらは古い型の人間だから」と静かに笑っておられた。そして「けたぐりで横綱を倒すこともできる。漫画にはそういう技もあるんですよ」と話してくれた。力不足の者への優しい配慮だったと思うが、私はひそかにまつやまさんの勉強方法に学ぼうと考えた。でも、とても、とてもまつやま先生の域には近づけない。小兵力士の舞の海の活躍をテレビで見ながら、私はまた優しいまつやまさんの顔を思い出した。

(全教「ほんりゅう」1992年5月号)


漫画と批判精神

商品としての「風刺」

ナポレオンとピットが地球を切り分けている作品(1805年)で有名なのはイギリスの漫画家ジエムズ・ギルレイである。この漫画は風刺漫画の代表例としてしばしば引用される。国立西洋美術館で開催された「イギリスのカリカチュア」展にももちろん出品されていた。だが同展で買い求めた図録の解説を読んで、私は少し驚いた。ギルレイについてこんな風に書いてあったからだ。「金が出そうなどちらかかの政党のために彼がよく制作したその痛烈な政治的カリカチュア…」解説によるとギルレイは、みずからの内なる「批判精神」としてあれを描いたのではなく「金が出そうな政党」の立場で「商品」としてあの作品を描いた事になる。このことは私にある事実を教えてくれる。

 私たちはときどき、漫画は「庶民の立場にたった批判精神」の発露であるなどと主張することがある。だがこの言い方は漫画それ自体の内部にいつでも必ず「庶民の立場にたった批判精神」が存在するかのような印象を与えかねない。しかし、ギルレイの制作が教えてくれるようにかならずしもそうではない。

 日本ではかって安保条約を推進する立場から「安保がわかる」と題した技術的にハイレベルの漫画が描かれたことがある。もっと以前には戦争協力の漫画も描かれた。こうした事例をみれば漫画が一般的に「庶民の立場」にたっていると思われる点はその「絵ときのわかりやすさ」であって、漫画の内容が庶民の立場にたっているかどうかは別問題であることがわかる。つまり漫画はわかりやすい表現の媒体ということであり、媒体自体には思想性はない。

政治漫画家まつやまふみお(1902〜1982)は自らの漫画を「批判的階級の批判的武器」と呼んだ。もちろんここでいう「武器」とは言論戦でのことだが漫画をそう呼ぶためには、みずからの内部に自由や民主主義を抑圧する陣営への明晰な批判精神とそれを表現しょうと思う意志が必要である。同時にそれを可能にする豊かな技術がかかせない。私の場合とてもその域には至らないのが残念だが・・・。

(赤旗1989年6月発表のもの修正)